ぷらぷらまち歩きin岩見沢 報告

[平成27年10月25日]雪がチラつく寒ーい日曜日、空知管内13箇所で開催された【ぷらぷらまち歩き】の岩見沢開催がありました。


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ちなみに、岩見沢での案内人は僭越ながら私、平野が行わせていただく機会をいただきました。せっかくなので、参加してくれた方々が退屈しないように岩見沢の開拓からの生い立ちにスポットを当ててルートを設定!俄仕込みですが何とか形に(笑)

 

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さて、この日のルートは!(各画像は参加していただいた方のfacebook等から拝借)

 

 

【13時 そらち炭鉱の記憶マネジメントセンターを出発】
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事前申し込みの無いシステムのため、集合時間にならなければ何名来てくれるかわからない。この日は朝から小雨。天気予報は午後から雪・・。かなり気温も低く、気持ちが萎える状況。にもかかわらず、蓋を開けてみると16名の参加をいただき、なんとか事無きを得ることができました。

【①岩見沢複合駅舎内のガイド】
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この駅舎は見どころが沢山!多くの人が知らない「へぇ~」を沢山お伝えしてきました。窓枠の古レールの間隔、4777個の刻印レンガのストーリー、最古のレールは1900年製!2600年台代のレールってなんだ?レンガの積み方は寒冷地の工夫の賜物!小端空間積みの秘密。南北自由通路の素晴らしさ、設計者の類まれなコダワリの数々。etc.etc.・・・。外は寒かったので、ちょっと予定より駅舎内の案内を増やして実施。

 

あと、岩見沢駅と石川啄木の関係とシャイな恋愛関係等々もお話しようと思いつつ、おもいっきり忘れてしまったのはご愛嬌。これもあらためて知ると、とってもドラマティックなエピソードになります。

 

 

【②岩見沢レールセンター】
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竣工は1899年 横浜や小樽の赤レンガ、函館の金森倉庫より古い。ちなみに道庁赤レンガは1888年。

 

ファサートの☆マークは北海道開拓使と相通じるもの、この☆には中に○が入っている。それは北炭の社章。北炭とは北海道炭鉱鉄道(現 北海道炭鉱汽船株式会社)のこと。(この時に看板つけをしていただいた1890HTTのレール刻印のHTTはHokkaido Tanko Tetsudoの略です)

 

明治22年、北炭は北海道開拓史から幌内炭鉱と官営幌内鉄道~手宮―幌内線の払い下げを受ける。条件として囚人の役務権限や政府からの手厚い保護。近隣の炭鉱の開発と室蘭港、各地への鉄道延伸など、北海道の開発、日本の近代化に大きく貢献した企業。

ちなみに、初代社長は堀基(薩摩藩士)、北海道開拓長官を務めた黒田清隆(第2代内閣総理大臣)等、幕末に活躍した人々の関わりや、意外なところでは出資者として福沢諭吉の名もある。

 

この北炭が明治37年から、鉄道国有法によって国に買い戻される明治39年までは岩見沢に本社があった。

 

『岩見沢市史』によると、(以下抜粋)三七年には札幌区にあった北炭の本社が駅前に置かれ、街は活気づき商店も増えていった。「北炭職員はよい給料を貰っていて購買力も旺盛で、当時の呉服店は北炭職員家族を対象に競って高級品を揃えて、商売は大いに繁昌したという」しかし、三九年一〇月鉄道国有法の発布で北炭本社は室蘭に移転し、二万二三八八人の人口が一万九八一二人に減じ、商店街は上顧客を失って火の消えたようなさびれ方であったという。(抜粋終わり)

 

なんと、人口2万2千人程度の町で、短期間に2,576人・88%への減少。しかも富裕層。この時の経済的衝撃は相当なものだったと想像できます。

私自身、知れば知る程、このレールセンターからは色々なことを学べます。

 

 

 

【③旧国兼邸】

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大正6年頃に建てられた高級住宅様式の木造建築物。岩見沢市の有形文化財として指定されていますが、なかなか外観を見かけたことはあるものの、中を見る機会はありませんでした。そこで今回、教育委員会の快い協力もいただきながら、内部を見学させていただくことに!

 

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土縁付き縁側。ガラスは当時のままで”ゆらゆら”に見えるものが残っています。(極一部、破損により近年のガラスに変更されています)

 

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他にも囲炉裏や江戸時代の刀鍔を埋め込んだ欄間等々、見どころも沢山。 是非機会がありましたらご覧頂きたい文化財です。

 

 

【④岩見沢発祥の地公園】
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なんでココが岩見沢発祥の地なの?と言う方も多いかもしれません。

 

幌内炭田までの道路開削に伴い、明治11年に札幌―幌内間に官営の休泊所が5箇所できたうちの一つがこの場所。この幾春別川の水で湯を沸かし、疲れを癒やす湯浴みをしたことが、「ユアミ澤」の語源と言われる(諸説あり)。

 

元資料を見つけることができていないので、真贋は不明ですが、明治6年にはライマンと共に榎本武揚が幌内調査の際に、この地で露営し、明治8年には開拓史長官の黒田清隆が幌内視察を行っているらしい。

 

北炭≒幌内鉄道から脱線すると、明治元年に幌内で露頭炭層を発見し、明治6年には北海道開拓史の助っ人アメリカ人ライマンが調査。それ以降、国家プロジェクトとしてふさわしいかどうかの調査も兼ね、幌内には榎本武揚、大鳥圭介、黒田清隆、伊藤博文、山形有朋など、当時のビッグネームがみんなこの付近を通っていると思われます。

 

なぜこの地が岩見沢発祥の地となっているかというと、明治16年、札幌から狩野末治さんという方がこの休泊所を譲り受け、奥さんと二人で定住し、対岸とワイヤーを張って渡し船を始めた。よって、この橋の名は狩野橋という名がつけられています。岩見沢の定住者第一号と言われています。

 


この頃には寒さもかなりのものに・・・。

 

【⑤不思議な煙突】
(画像はgoogleストリートビューから拝借)
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中心市街地から北北東方面を見ると、唐突に古い煙突が一本立っているのをご存知でしょうか。私は平安閣さんの4階の窓から、いつも「なんだろう?」と思ってみていました。

数年前、思い立って一度現地に行った事があるのですが、更地に一本のコンクリート製の煙突が立っているだけ・・・。その後、和田高明さんという方の著書に出会い、これが製陶工場の跡だということを知りました。

 

今回はちょっと遠くから煙突を見学。この煙突の背景として、明治19年から明治25年まで北海道開発岩見沢製陶工場があり、その後、北州化学工業という会社があった。しかし、昭和27年3月の十勝沖地震に打撃を受け閉鎖。その後鉄くずのプレス工場があったようですが、現在はこの煙突だけ残っている。という話をさせていただきました。

 

よく見ると、型枠の跡が近年のコンパネではなく縦板を細かく繋いでいるのが特徴。夕張清水沢の発電所跡で見た大正時代の煙突もこの形態でした。

 

ちなみに、十勝沖地震では、岩見沢では66個の家屋全壊、破損、各所の学校や庁舎等の集合煙突が多数倒壊したと言われています。この煙突はその地震に耐えて今に至っているのかと思うと、たかが煙突でも何かが伝わってきそうな気がします。

 

 

【⑥元遊郭通り】 

現在は知らずにその沿道に住んでいる方もいるのかもしれないと想像すると、何となくその通りの画像を添付するのをやめますが、岩見沢にも明治30年頃にはすでに元町界隈に遊郭があったと聞いています。それは開拓民をつなぎとめるためなどの理由で国家公認のものでした(元町遊郭のあった場所を教えてくれたY中さんありがとうございました)。

 

市街地の発展に伴い、街の中心が現在の市街地に移ったことで一旦移転した記録があります。しかし大正2年に大火があり、それを機に繁華街にそのようなものがあるのは風紀上好ましくないということで、またこの元町に移転したと言われています。10数件あったうちの7件がこの元町に移り、俗に新郭とか、7軒町と言われたそう。

 

当時は幾春別川が現在よりかなり蛇行していたため、袋小路になっていた。今はその面影は全くありませんが、この元町界隈で、このうな賑わいがあったということを想像してみてはいかがでしょう?

 

ちなみに、岩見沢では、他に上志文の旧渡し場、岡山の渡し場付近にも女郎部屋などがあったようです。

 

 

【⑦某不思議な佇まいの古い建物】

これも個人所有の建物と思われますので、画像の掲載を控えさせていただきますが、元町にはレンガでできたとても風合いのある古い建物があります。ぱっと見、屋根のつくりや凝った意匠などで遊郭の建物を想像させますが、場所も異なりますし大きさも小さい。恐らく関連無いのだろうと思っておりますが、一度、その詳細を所有者の方などに聞いてみたい意欲がありますが、まだ機が熟しておりません。近々動き出す「岩見沢シビックプライド探求部」などで調べてみたいと思っています。あしからず。

 


雪もチラつきはじめ、寒さはピークに・・。

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【⑧元町人道跨線橋(夕張道路)】
(画像はgoogleストリートビューより拝借)
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明治15年に開通した幌内鉄道の岩見沢停車場(フラグステーション)はこの跨線橋の少し旭川側と言われています。また、明治20年頃には役場等の庁舎もこの辺りで、色々な施設ができていた模様。

 

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この跨線橋を南に渡ると中央通り。賑わっていた頃は夕張道路と呼ばれていたところ。

明治期において、この近郊の道路開削等の過酷な仕事は、樺戸や空知集治監の囚人が担った。この夕張道路もそう。樺戸と空知集治監は刑期10年以上の重罪犯とされていたそう。

明治期はこの辺りが起点となり、岩見沢の市街地が形成されていったと思うと感慨深い。

 

南側ずっと奥に見える?(市役所前)モニュメントは「和を捧ぐ」という名の塔。鳩が丘記念緑地に岩見沢開基110年の節目につくったもの。岩見沢の3大祭りなどが掘られており、高さは15m。

 

 

 

駅東市民広場の横を通り、最盛期はこの広場の場所も線路の引き込みで一杯だったことなどをお話しつつ、ガタガタ震えながらゴールへ。

 

 

⑩そらち炭鉱の記憶マネジメントセンター到着
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暖かい紅茶をいただき無事終了!

 

 

という約2時間のコース。

 

裏話的には・・。

ルート設定は前の日にペットのハチ吉と共にリサーチ!google mapで想定した時間設定が正しいかどうか確認をしてきたのですが、本番当日はあまりの寒さに色々と予定変更(笑)

 

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今回、この様なガイド役をする機会に恵まれ、自分の地域のことを少し調べるチャンスをいただきました。朧気だったこと、これまで知らなかったことを知ることができ、とても有意義な時間となりました。

 

ただ、間違った解釈等もあるかもしれません。そんなときは少しずつバージョンアップしていきたいと思いますが、本情報を再利用するときはくれぐれも信用し過ぎないようにお気をつけ下さい。見つけた情報の更に元となる信憑性の高い情報を探すことができず、自信のないところも多々存在しています(参加者の皆様には告知済み(笑))。

 

ただ、地元のことを知るというのはとても楽しく有意義なことです。

これからも少しずつ仲間を増やしつつ、情報を整理しながら、わかりやすく多くの人に説明できるようになれると良いなと願っています。

 

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参考として、取材していただいたプレス空知さんの記事を掲載しておきます。

 

ぷらぷら岩見沢記事

 

この様な機会をくれたNPO炭鉱の記憶推進事業団の吉岡理事長、ご参加いただいた皆様、取材いただいた末永さん、皆様ありがとうございました!

 

 

最後に、、


岩見沢の生い立ちを調べるにあたり、下記の資料を参考にさせていただきました。

 

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(上:岩見沢開基120年・市制60周年記念誌~岩見沢のおいたちと発展の歴史 ふるさと山口・鳥取からの旅立ち)

 

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(和田高明氏著:原域 岩見澤 郷土かるた)

 

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(他:様々な資料を参考にさせていただきました。)

 

見たい方がいらっしゃいましたら是非ご一報を。